「祈りのある生活」   テサロニケの信徒への手紙Ⅰ 5章16~18節     2018・11・11

 

主イエス・キリストのことが書き残された証言のなかで、最も古いものがこのテサロニケの信徒への手紙です。まだ、イエスさまの十字架とご復活の出来事から、二十年もたたないころでした。ローマの自由市民と、奴隷との身分の差が大きくある時代でした。男性と女性との社会での役割がはっきりと違う時代でした。貧しい人と、富める人との格差が大きくありました。そのような中で、イエスさまは、ユダヤ人もギリシャ人もなく、男も女も、貧しい人も富める人も関係なく、互いに隣人を愛する生き方を、誰かとしっかりとつながって生きる生き方を、指し示してくださいました。主の十字架とご復活とによって、どれだけ神さまが人間を愛されているのかを知ったとき、テサロニケの信徒の人たちは、素朴な毎日の生活の中に、誰とでも分け隔てなく接し、たくさんの絆に結ばれた豊かな恵みを、確かに感じて歩むことができました。

 

キリスト・イエスにおいて、神さまがわたしたちに望んでおられることとは何でしょうか。それは、「いつも喜んでいなさい。 絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。」ということです。いつでも、絶えず、どんなことにも、ということは、特別な日だけ、特定の時間だけ、喜び、祈り、感謝する、というすすめではありません。それは、私たちの普段の生活のなかで実践されることが望まれています。祈りのある生活を送るようにと、聖書は語りかけるのです。

 

 私たちはどのように祈ればよいのか、どのような言葉で祈ればよいのかを心から知りたいと思います。主イエスの弟子たちも、祈りを教えてください、と主に頼みました。「主の祈り」とはその時にイエスさまが弟子たちに教えてくださった祈りです。「天にまします、我らの父よ」と、神さまに、語りかけていいのだと、神さまとお話しすることが祈りだと、主イエスは示されたのです。

 

私たちが、毎日曜日に教会に集い、礼拝をお奉げする目的の一つは、祈りのある生活を送るために、祈り方を学んでいるのだと思います。教会には、実に様々な祈りがあります。そのなかで一つ、ぜひ、祈りのある生活を送る上で、取り入れていただきたい祈りがあります。いや、実は、私たちは、意識する、しないに関わらず、この祈りを毎日祈っています。あるいは、この祈りを誰かから祈られています。それは「とりなしの祈り」です。とりなしとは、取り持つ、平たく言いますと、自分のためではなくて、誰かのために祈る祈りのことです。祈りは、必ずしも礼拝堂で目を閉じて手を合わせて祈ることだけが、祈りではありません。そうであれば、絶えず祈ることは不可能なことです。とりなしの祈りとは、もっと簡単にいいますと、だれかのことを心に思うことです。そして、同時に、私たちは誰かから、大切に思われているということを感じながら生きています。もしも、誰からも自分が必要とされていない、と感じたならば、私たちは生きていく希望を失うことでしょう。想像するのも恐ろしいことです。祈りのある生活とは、愛する家族のことを、今日出会った人のことを、まだ会ったこともない人のことを、心からとりなし、かたく絆を結んでゆくことだと思います。また、それは同時に、自分のことを祈ってくれている人に、自分のことを支えてくれている人に感謝をするときでもあります。

 

とりなしの祈りは、地上の歩みを終えて、神さまのみもとに召された方とも互いに祈り合うことができます。いや、むしろ、そのとりなしの祈りによって、私たちはうんと力をいただいて、生かされているのではないでしょうか。誰よりも、主イエス・キリストがいつも私たちをとりなし、祈ってくださっています。