イザヤ書52:1-10「主の待降節」

エレミヤ書23:1-6「主は我らの救い」

出エジプト2:1-10「救いの約束」


「開かれた祈りの家」   マルコによる福音書1115-19節    2019・11・10

 

敵をも愛しなさい、右のほほを打たれたなら左のほほをも向けなさい、上着をとる者には下着をも差し出しなさいと、そのような教えを説かれたイエスさまが、唯一と言っていいと思いますが、お怒りになられて、荒々しく振舞う様子が今日お読みした福音書に記されてあります。

 

イエスさまとお弟子さんたちがエルサレムの神殿の境内に入ったときのことでした。外国からも大勢の巡礼者が訪れ、そこで両替をして神殿に税金を納めます。そのとき両替人は手数料を多く取るわけです。また焼きつくすささげものとして鳩や羊らを境内で売っているのですが、それは町の相場の数倍の高値で売っていたようです。そのような神殿の境内で、イエスさまは、売り買いしていた人たちを追い出し始めて、両替人や鳩を売る人たちの腰かけていたイスやらを、ひっくり返すのでした。荒々しい、その息遣いも聞こえてきそうなイエスさまのお姿です。そばにいたお弟子さん達にとっても、衝撃的な出来事だったのではないでしょうか。あの、優しいイエスさまが、昭和のお父さんのように、ちゃぶ台をひっくり返すようにして怒りをあらわにしている。境内で物を運ぶこともとがめられて、こうお教えになられたのです。

 

「こう書いてあるではないか。『わたしの家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである。』」

 

 こう書いてあるとは、今わたしたちが旧約聖書と呼んでいる聖書に書いてあるということです。

 

「わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。」イザヤ書56:7

 

この個所です。ところが、あなたたちはその祈りの家である神殿で、法外な値段で取引をして、強盗の巣にしてしまった。すべての民の祈りの家ではないのか、どうして、外国からの巡礼者からだまし取るようなことをするのか、と。 

 

 群衆は心打たれて、イエスさまの訴えに耳を傾けていましたが、「祭司長たちや律法学者たちはこれを聞いて、イエスをどのようにして殺そうかと謀った。」とあります。神殿での商売を邪魔されては困ると思ったのでしょう。また、大勢の人がイエスさまの教えに感動している様子を見て、暴動やら何やらが起こっては危険だと恐れたのです。この出来事はイエスさまが十字架へと歩まれる、その直接的なきっかけとなる、大きな出来事でありました。いわば、主イエスは命をおかけになられて、宮清めをなさったのです。

 

 イエスさまの怒りは、その荒々しい行動は、どうしても教え正さなければならないことがあった、それだから厳しさをあらわになされたのでした。それは神の宮である神殿が、すべての人の開かれた祈りの家であるということを、お示しになるためでした。それだけではありません、この時に、イエスさまはすでに十字架への道行を覚悟なされていましたし、やがては、この神殿もローマ軍によって焼き払われることも見通されていました。 

 

 当時のユダヤの人たちにとって、エルサレムの神殿というのは、私たちには想像ができないぐらいに大きな存在でした。目に見える神殿はやがてなくなってしまうけれども、イエスさまは自らの命をおささげすることによって、神の国を、朽ちることのない神殿を示そうとなさったのです。それは永遠の命を明らかにすることでありました。

 

 そのような思いで、神殿の境内に入られたイエスさまでしたから、お金儲けのことばかり考えている両替人や鳩を売る人たちを見て、憤られ、怒りをもって叱られたのです。

 

「わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。」

 

 わたしの家とは、主なる神の家、神殿であり、この教会であり、わたしたち一人ひとりの体でもあります。 

 

 神の家である教会が、すべての人の祈りの家と呼ばれると、聖書に記されています。開かれた祈りの家であると、扉を閉じているのではなく、すべての人に開かれて、オープンでなければならないと。

 

 風のない晴れた穏やかな日には、できるだけ教会の扉を開いておくように心がけています。前を通り過ぎる人は、教会の中を覗き込むようにしてゆきます。たまにですが、礼拝堂に入られて、心静かに祈られる方もいらっしゃいます。初めて礼拝堂の中に足を踏み入れるのはとても勇気がいります。音楽礼拝をまもったり、教会フェスティバルなどの催しをしたりして、少しでも教会の敷居を低くと工夫をしていますが、大切なことは、教会が祈りの家であるということです。

 

  永眠者記念礼拝をまもり、私たちが第一に祈らなければならないことは、何でしょうか。教会では地上での生涯を終えることを、召天する、天に召されるといいます。天に帰る、帰天という表現もあります。永眠と言う表現も、それは終わりではなく、主のよみがえりの命のなかで、起き上がるという信仰の意味が込められてあります。ここに、私たちの祈りがあります。神の御国で、愛する故人のお一人おひとりが、主の命の中で共にいかされてあるという感謝の祈りであります。命の光の中で、いまも輝き続けてあると信じて、祈ることです。

 

 死が終わりではないと言うことを、私たちはどうしたら信じることができるでしょうか。死の闇と恐れと不安が、どうすれば、光と希望と平安とで満たされたものとなるのでしょうか。

 

  私たちがたよるのは、聖書のみ言葉です。

 

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」ヨハネ福音書3:16

 

 天にいます父なる神さまは、その独り子であるイエスさまをお遣わしになられ、私たちが神さまなど知らないと、神殿の境内で商売をするような、そのような心持で生きている、その罪を贖ってくださいました。それほどに世を愛された。独り子を信じる者が、主イエスの十字架の贖いと、よみがえりの命を信じる者が一人も滅びないで、御国へと招かれ、永遠の命をえるためにです。

 

「わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。」

 

 すべての人の祈りの家とは、独りも滅びないで永遠の命をえる、そのための祈りの家です。イエスさまはこの永遠の命について、私たちを教え導くために宮清めをなされ、そして、十字架への道行を歩まれたのです。

 

「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。」一コリント 3:16

 

 私自身が神の神殿であり、開かれた祈りの家でもあります。永遠の命を覚えながら、日々の生活を歩むということは、心が閉ざされることなく、開かれた心で、毎日を恵みの内に生かされることです。わたしが、開かれた祈りの家であると呼ばれる。そのように心から願います。イエスさまはいつでも、あなたの扉を開きなさいと、心を高く天に向けなさいと、となり人を自分のように愛しなさいと、そのために、開かれた祈りの家となりなさいと、時に厳しく、そして私たちの背負うべき十字架をも担って下さり、励まして下さいます。

 

 開いた心を求めて、祈りの内に歩んで参りたいと切に願います。


 「み言葉の証し人」   ルカによる福音書 241-12節     2019421

  

主の十二人の弟子たちは皆男性でした。ユダが裏切ってしまいますので、主のよみがえりの朝には、十一人の弟子たちが、何もできずに、ただ、恐怖と不安との中で、部屋に閉じこもっておりました。

 

イエスさまの十字架のご受難を見届け、お墓に葬られる様子を見守ったのは、他でもない、ガリラヤから従ってきた婦人たちでした。そして、週の初めの日の明け方早く、その婦人たちは香料を持って墓に行きました。土曜日は安息日なので、お墓に来ることができなかったのです。週の初めの日、つまり、日曜日を迎えて、まだ日が昇らない明け方早くに、イエスさまの葬りの支度を整えて、足早にお墓へと向かいます。

 

見ると、石が墓のわきに転がしてありました。お墓は、洞窟のようになっていて、石でふさがれてあるのです。ところが、その石がわきに転がしてあった。婦人たちは、中に入ってイエスさまのご遺体をさがしましたがどこにも見当たりません。だれかが取り去ったにちがいない。なすすべもなく、途方に暮れていますと、輝く衣を着た二人の人が現れました。婦人たちは恐れて、地に顔を伏せました。天からの使いの人が言います。

 

「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。」

 

主のよみがえりの朝に、私たちに問いかけられていることは、「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。」ということです。聖書を朗読し、そのみ言葉に耳を傾ける、けれども、私たちの母国語である日本語で、しかも、現代の分かりやすい日本語で主イエス・キリストの福音にこうして耳を傾けたときに、この出来事は遠い昔の、しかも言葉も文化も違う遠い外国の話だと、わずかでも心に思うのであれば、それは、イエスさまを、葬られたお墓のなかに捜しているのと同じことなのです。 

 

そうではありません。私たちは、生きておられる方を訪ね求めているのです。今、私たちが生きている、呼吸をして、脈打ち、体に熱を発している。この、生きている私に、今、生きて働いてくださっている主に触れるのです。これが、主の復活です。これが、主のよみがえりです。

 

「あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。」地に顔を伏せていた婦人たちは、顔をゆっくりと上げました。ガリラヤの風薫る丘で、イエスさまが語られたみ言葉が、胸の内によみがえりました。やさしくて、威厳に満ちた、これまでの私のあやまりを、すべてお赦しになられて、これからは神さまの子として、光の子として歩みなさいと、おっしゃる、あの主の一つひとつのみ言葉が、鮮明に聴こえてきます。

 

「三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」そう、確かに、主ははっきりと、だれにも言わないようにと命じて弟子たちにそのように語られた。イエスさまが、五千人の人達を命のパンで満たしたその晩に、主は一人で祈られ、弟子たちも共にいた。共にいたのは、十二人の弟子たちだけではなくて、この婦人たちもそこにいたのです。主が語られるみ言葉をひと言も聞き漏らすまいと、その周囲を取り囲むようにして、婦人たちは弟子たちの世話をしながら、その場に居合わせていたのです。婦人たちは、その時にイエスさまが語られたみ言葉の一つひとつを思い出しました。

 

私たちも、ふとある時に、聖書のみ言葉を思い出すことがあります。遠い昔、青年時代や子供のころに聞いたみ言葉が、その時にはそれほどに注意してはいなかったのが、時が過ぎて、あぁ、あのみ言葉が、今になって思い出され、心に響いてくる、ということがあります。

 

 鎌ヶ谷教会は、ガリラヤから従ってきた婦人たちのように、婦人会の活動がとても盛んです。盛んですと言いましても、何か社会的な取り組みや、特別なことをしているわけではありません。月に一度の例会をもち、教会でのさまざまな奉仕を確認して、また、静かに聖書のみ言葉に聴きます。それは、ちょうどイエスさまの身の回りの世話をしながら、いつでも主のそばにいて、誰よりも主のみ言葉に耳を傾けている様子と重なります。

 

 イエスさまの亡骸が見当たらないお墓の前で、途方に暮れていた婦人たちは、イエスさまの言葉を思い出しました。ガリラヤの風景も、主の愛に包まれた忘れがたい時間も、同時に体の中によみがえりました。恐れの中にありながらも、喜びと勇気が沸き起こってきました。そして、お墓を背にして、十一人のお弟子さんたちと、他の人のみんなに、一部始終、すべてを知らせました。それは、マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、そして一緒にいた他の婦人たちでありました。ガリラヤの婦人会のみなさんが、イエスさまのみ言葉をはっきりと思い出して、みんなに伝えるのです。

 

「婦人たちはイエスの言葉を思い出した。そして、墓から帰って、十一人とほかの人皆に一部始終を知らせた。」この知らせたという言葉は、報告をするという意味があって、キリストの出来事を婦人たちは報告したのです。ルターはこの個所をこのように訳しました。「彼女たちは、イエスの言葉を思い出した。そして、墓から帰って十一人とほかの人々に宣教した。」福音を宣べ伝えた、と訳したのです。このガリラヤの婦人たちが、最初のみ言葉の証し人でありました。

 

 ところが、男性は疑い深いのでしょうか。まだすぐには信じることができません。使徒たちは、この婦人たちの話がたわ言のように思いました。「たわ言」は聖書にここにだけ唯一用いられてある言葉です。もともと、医学用語でした。熱にうかされたと言う意味です。医者であるルカが用いた表現でしょう。婦人たちは熱にうかされているように、主の十字架の前で悲しみに打ちひしがれている、だからこのようなことを言っているのだと、使徒たちは婦人たちを信じませんでした。

 

 けれども、ペトロは立ち上がってお墓へと駆けてゆきました。三度、主を知らないと言ったあのペトロでしたが、婦人たちの話をきいて、自分の目で確かめに行きます。身をかがめてお墓のなかをのぞくと、亜麻布しかありません。ペトロは驚き、不思議に思いながら家に帰りました。亜麻布しかなかった、という個所は原文を直訳しますと、「亜麻布だけを彼は見る」となります。見たという過去形ではなくて、「彼は見る」と現在形で語られます。

 

「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。」このように問いかけられています。主イエス・キリストを死者の中に、葬られたお墓の中をのぞいたとしても、その人は「亜麻布だけを見る」ことになるのです。ですから、私たちは、いま、生きて働いておられる主を崇め賛美いたします。むかしむかし、ナザレのひとが、人々に優しい言葉をかけて、多くの人をいやし、ときの権力者たちに抵抗し、愛と自由を説いた人を心に思い描くだけでは、それは亜麻布だけを見ているのにすぎません。「三日目に復活することになっている」このみ言葉は、よみがえりの主を、いまここに臨在する主を確かに証しする福音です。

 

 主の十字架によって私たちの罪が贖われ、よみがえりの、永遠の命に導かれてある。わたしたち一人ひとりが、どれだけに愛され、祝福され、生かされてあるのか、その恵みを心より感謝いたします。


  「祈りのある生活」   テサロニケの信徒への手紙Ⅰ 5章16~18節     2018・11・11

 

主イエス・キリストのことが書き残された証言のなかで、最も古いものがこのテサロニケの信徒への手紙です。まだ、イエスさまの十字架とご復活の出来事から、二十年もたたないころでした。ローマの自由市民と、奴隷との身分の差が大きくある時代でした。男性と女性との社会での役割がはっきりと違う時代でした。貧しい人と、富める人との格差が大きくありました。そのような中で、イエスさまは、ユダヤ人もギリシャ人もなく、男も女も、貧しい人も富める人も関係なく、互いに隣人を愛する生き方を、誰かとしっかりとつながって生きる生き方を、指し示してくださいました。主の十字架とご復活とによって、どれだけ神さまが人間を愛されているのかを知ったとき、テサロニケの信徒の人たちは、素朴な毎日の生活の中に、誰とでも分け隔てなく接し、たくさんの絆に結ばれた豊かな恵みを、確かに感じて歩むことができました。

 

キリスト・イエスにおいて、神さまがわたしたちに望んでおられることとは何でしょうか。それは、「いつも喜んでいなさい。 絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。」ということです。いつでも、絶えず、どんなことにも、ということは、特別な日だけ、特定の時間だけ、喜び、祈り、感謝する、というすすめではありません。それは、私たちの普段の生活のなかで実践されることが望まれています。祈りのある生活を送るようにと、聖書は語りかけるのです。

 

 私たちはどのように祈ればよいのか、どのような言葉で祈ればよいのかを心から知りたいと思います。主イエスの弟子たちも、祈りを教えてください、と主に頼みました。「主の祈り」とはその時にイエスさまが弟子たちに教えてくださった祈りです。「天にまします、我らの父よ」と、神さまに、語りかけていいのだと、神さまとお話しすることが祈りだと、主イエスは示されたのです。

 

私たちが、毎日曜日に教会に集い、礼拝をお奉げする目的の一つは、祈りのある生活を送るために、祈り方を学んでいるのだと思います。教会には、実に様々な祈りがあります。そのなかで一つ、ぜひ、祈りのある生活を送る上で、取り入れていただきたい祈りがあります。いや、実は、私たちは、意識する、しないに関わらず、この祈りを毎日祈っています。あるいは、この祈りを誰かから祈られています。それは「とりなしの祈り」です。とりなしとは、取り持つ、平たく言いますと、自分のためではなくて、誰かのために祈る祈りのことです。祈りは、必ずしも礼拝堂で目を閉じて手を合わせて祈ることだけが、祈りではありません。そうであれば、絶えず祈ることは不可能なことです。とりなしの祈りとは、もっと簡単にいいますと、だれかのことを心に思うことです。そして、同時に、私たちは誰かから、大切に思われているということを感じながら生きています。もしも、誰からも自分が必要とされていない、と感じたならば、私たちは生きていく希望を失うことでしょう。想像するのも恐ろしいことです。祈りのある生活とは、愛する家族のことを、今日出会った人のことを、まだ会ったこともない人のことを、心からとりなし、かたく絆を結んでゆくことだと思います。また、それは同時に、自分のことを祈ってくれている人に、自分のことを支えてくれている人に感謝をするときでもあります。

 

とりなしの祈りは、地上の歩みを終えて、神さまのみもとに召された方とも互いに祈り合うことができます。いや、むしろ、そのとりなしの祈りによって、私たちはうんと力をいただいて、生かされているのではないでしょうか。誰よりも、主イエス・キリストがいつも私たちをとりなし、祈ってくださっています。