使徒言行録2:37-47「喜びと真心をもって」

使徒言行録2:14-24「天からの風」


 「み言葉の証し人」   ルカによる福音書 241-12節     2019421

  

主の十二人の弟子たちは皆男性でした。ユダが裏切ってしまいますので、主のよみがえりの朝には、十一人の弟子たちが、何もできずに、ただ、恐怖と不安との中で、部屋に閉じこもっておりました。

 

イエスさまの十字架のご受難を見届け、お墓に葬られる様子を見守ったのは、他でもない、ガリラヤから従ってきた婦人たちでした。そして、週の初めの日の明け方早く、その婦人たちは香料を持って墓に行きました。土曜日は安息日なので、お墓に来ることができなかったのです。週の初めの日、つまり、日曜日を迎えて、まだ日が昇らない明け方早くに、イエスさまの葬りの支度を整えて、足早にお墓へと向かいます。

 

見ると、石が墓のわきに転がしてありました。お墓は、洞窟のようになっていて、石でふさがれてあるのです。ところが、その石がわきに転がしてあった。婦人たちは、中に入ってイエスさまのご遺体をさがしましたがどこにも見当たりません。だれかが取り去ったにちがいない。なすすべもなく、途方に暮れていますと、輝く衣を着た二人の人が現れました。婦人たちは恐れて、地に顔を伏せました。天からの使いの人が言います。

 

「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。」

 

主のよみがえりの朝に、私たちに問いかけられていることは、「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。」ということです。聖書を朗読し、そのみ言葉に耳を傾ける、けれども、私たちの母国語である日本語で、しかも、現代の分かりやすい日本語で主イエス・キリストの福音にこうして耳を傾けたときに、この出来事は遠い昔の、しかも言葉も文化も違う遠い外国の話だと、わずかでも心に思うのであれば、それは、イエスさまを、葬られたお墓のなかに捜しているのと同じことなのです。 

 

そうではありません。私たちは、生きておられる方を訪ね求めているのです。今、私たちが生きている、呼吸をして、脈打ち、体に熱を発している。この、生きている私に、今、生きて働いてくださっている主に触れるのです。これが、主の復活です。これが、主のよみがえりです。

 

「あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。」地に顔を伏せていた婦人たちは、顔をゆっくりと上げました。ガリラヤの風薫る丘で、イエスさまが語られたみ言葉が、胸の内によみがえりました。やさしくて、威厳に満ちた、これまでの私のあやまりを、すべてお赦しになられて、これからは神さまの子として、光の子として歩みなさいと、おっしゃる、あの主の一つひとつのみ言葉が、鮮明に聴こえてきます。

 

「三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」そう、確かに、主ははっきりと、だれにも言わないようにと命じて弟子たちにそのように語られた。イエスさまが、五千人の人達を命のパンで満たしたその晩に、主は一人で祈られ、弟子たちも共にいた。共にいたのは、十二人の弟子たちだけではなくて、この婦人たちもそこにいたのです。主が語られるみ言葉をひと言も聞き漏らすまいと、その周囲を取り囲むようにして、婦人たちは弟子たちの世話をしながら、その場に居合わせていたのです。婦人たちは、その時にイエスさまが語られたみ言葉の一つひとつを思い出しました。

 

私たちも、ふとある時に、聖書のみ言葉を思い出すことがあります。遠い昔、青年時代や子供のころに聞いたみ言葉が、その時にはそれほどに注意してはいなかったのが、時が過ぎて、あぁ、あのみ言葉が、今になって思い出され、心に響いてくる、ということがあります。

 

 鎌ヶ谷教会は、ガリラヤから従ってきた婦人たちのように、婦人会の活動がとても盛んです。盛んですと言いましても、何か社会的な取り組みや、特別なことをしているわけではありません。月に一度の例会をもち、教会でのさまざまな奉仕を確認して、また、静かに聖書のみ言葉に聴きます。それは、ちょうどイエスさまの身の回りの世話をしながら、いつでも主のそばにいて、誰よりも主のみ言葉に耳を傾けている様子と重なります。

 

 イエスさまの亡骸が見当たらないお墓の前で、途方に暮れていた婦人たちは、イエスさまの言葉を思い出しました。ガリラヤの風景も、主の愛に包まれた忘れがたい時間も、同時に体の中によみがえりました。恐れの中にありながらも、喜びと勇気が沸き起こってきました。そして、お墓を背にして、十一人のお弟子さんたちと、他の人のみんなに、一部始終、すべてを知らせました。それは、マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、そして一緒にいた他の婦人たちでありました。ガリラヤの婦人会のみなさんが、イエスさまのみ言葉をはっきりと思い出して、みんなに伝えるのです。

 

「婦人たちはイエスの言葉を思い出した。そして、墓から帰って、十一人とほかの人皆に一部始終を知らせた。」この知らせたという言葉は、報告をするという意味があって、キリストの出来事を婦人たちは報告したのです。ルターはこの個所をこのように訳しました。「彼女たちは、イエスの言葉を思い出した。そして、墓から帰って十一人とほかの人々に宣教した。」福音を宣べ伝えた、と訳したのです。このガリラヤの婦人たちが、最初のみ言葉の証し人でありました。

 

 ところが、男性は疑い深いのでしょうか。まだすぐには信じることができません。使徒たちは、この婦人たちの話がたわ言のように思いました。「たわ言」は聖書にここにだけ唯一用いられてある言葉です。もともと、医学用語でした。熱にうかされたと言う意味です。医者であるルカが用いた表現でしょう。婦人たちは熱にうかされているように、主の十字架の前で悲しみに打ちひしがれている、だからこのようなことを言っているのだと、使徒たちは婦人たちを信じませんでした。

 

 けれども、ペトロは立ち上がってお墓へと駆けてゆきました。三度、主を知らないと言ったあのペトロでしたが、婦人たちの話をきいて、自分の目で確かめに行きます。身をかがめてお墓のなかをのぞくと、亜麻布しかありません。ペトロは驚き、不思議に思いながら家に帰りました。亜麻布しかなかった、という個所は原文を直訳しますと、「亜麻布だけを彼は見る」となります。見たという過去形ではなくて、「彼は見る」と現在形で語られます。

 

「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。」このように問いかけられています。主イエス・キリストを死者の中に、葬られたお墓の中をのぞいたとしても、その人は「亜麻布だけを見る」ことになるのです。ですから、私たちは、いま、生きて働いておられる主を崇め賛美いたします。むかしむかし、ナザレのひとが、人々に優しい言葉をかけて、多くの人をいやし、ときの権力者たちに抵抗し、愛と自由を説いた人を心に思い描くだけでは、それは亜麻布だけを見ているのにすぎません。「三日目に復活することになっている」このみ言葉は、よみがえりの主を、いまここに臨在する主を確かに証しする福音です。

 

 主の十字架によって私たちの罪が贖われ、よみがえりの、永遠の命に導かれてある。わたしたち一人ひとりが、どれだけに愛され、祝福され、生かされてあるのか、その恵みを心より感謝いたします。


  「祈りのある生活」   テサロニケの信徒への手紙Ⅰ 5章16~18節     2018・11・11

 

主イエス・キリストのことが書き残された証言のなかで、最も古いものがこのテサロニケの信徒への手紙です。まだ、イエスさまの十字架とご復活の出来事から、二十年もたたないころでした。ローマの自由市民と、奴隷との身分の差が大きくある時代でした。男性と女性との社会での役割がはっきりと違う時代でした。貧しい人と、富める人との格差が大きくありました。そのような中で、イエスさまは、ユダヤ人もギリシャ人もなく、男も女も、貧しい人も富める人も関係なく、互いに隣人を愛する生き方を、誰かとしっかりとつながって生きる生き方を、指し示してくださいました。主の十字架とご復活とによって、どれだけ神さまが人間を愛されているのかを知ったとき、テサロニケの信徒の人たちは、素朴な毎日の生活の中に、誰とでも分け隔てなく接し、たくさんの絆に結ばれた豊かな恵みを、確かに感じて歩むことができました。

 

キリスト・イエスにおいて、神さまがわたしたちに望んでおられることとは何でしょうか。それは、「いつも喜んでいなさい。 絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。」ということです。いつでも、絶えず、どんなことにも、ということは、特別な日だけ、特定の時間だけ、喜び、祈り、感謝する、というすすめではありません。それは、私たちの普段の生活のなかで実践されることが望まれています。祈りのある生活を送るようにと、聖書は語りかけるのです。

 

 私たちはどのように祈ればよいのか、どのような言葉で祈ればよいのかを心から知りたいと思います。主イエスの弟子たちも、祈りを教えてください、と主に頼みました。「主の祈り」とはその時にイエスさまが弟子たちに教えてくださった祈りです。「天にまします、我らの父よ」と、神さまに、語りかけていいのだと、神さまとお話しすることが祈りだと、主イエスは示されたのです。

 

私たちが、毎日曜日に教会に集い、礼拝をお奉げする目的の一つは、祈りのある生活を送るために、祈り方を学んでいるのだと思います。教会には、実に様々な祈りがあります。そのなかで一つ、ぜひ、祈りのある生活を送る上で、取り入れていただきたい祈りがあります。いや、実は、私たちは、意識する、しないに関わらず、この祈りを毎日祈っています。あるいは、この祈りを誰かから祈られています。それは「とりなしの祈り」です。とりなしとは、取り持つ、平たく言いますと、自分のためではなくて、誰かのために祈る祈りのことです。祈りは、必ずしも礼拝堂で目を閉じて手を合わせて祈ることだけが、祈りではありません。そうであれば、絶えず祈ることは不可能なことです。とりなしの祈りとは、もっと簡単にいいますと、だれかのことを心に思うことです。そして、同時に、私たちは誰かから、大切に思われているということを感じながら生きています。もしも、誰からも自分が必要とされていない、と感じたならば、私たちは生きていく希望を失うことでしょう。想像するのも恐ろしいことです。祈りのある生活とは、愛する家族のことを、今日出会った人のことを、まだ会ったこともない人のことを、心からとりなし、かたく絆を結んでゆくことだと思います。また、それは同時に、自分のことを祈ってくれている人に、自分のことを支えてくれている人に感謝をするときでもあります。

 

とりなしの祈りは、地上の歩みを終えて、神さまのみもとに召された方とも互いに祈り合うことができます。いや、むしろ、そのとりなしの祈りによって、私たちはうんと力をいただいて、生かされているのではないでしょうか。誰よりも、主イエス・キリストがいつも私たちをとりなし、祈ってくださっています。