マタイによる福音書28:11-15「偽りの証人」

マタイによる福音書28:1-10「はじまりの朝」

マタイによる福音書27:32-56「なぜわたしをお見捨てになったのですか」


「新しい朝」  マタイによる福音書28章1-10節    2020・4・12

 

 会堂が空っぽです。いま私たちは恐ろしさのあまり震えあがっています。しかし、恐れることはない、行って、わたしの兄弟たちにガリラヤに行くように言いなさいと、主が語りかけて下さっています。この希望のみ言葉を、皆さまはそれぞれご家庭にいらっしゃることと思いますが、共に聴いていきたいと思います。

 

さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。

 

 「さて」、話題を変える、本題に入るということですが、原文を直訳しますと、「終わって、さて、安息日が」となります。終わった、安息日が終わった、それで、新しい朝を迎えるというのです。終わった、主の所へ行きたくとも行けない暗い夜が終わった、イースターの出来事は、暗闇が終わり、そして週の初めの日の明け方に光が差し込んでくるのです。

 

 マグダラのマリアともう一人のマリアが、イエスさまのところへ足早に向かいます。もう一人のマリアとは、イエスさまの母マリアであろうかと思います。すると、お墓の石がわきへ転がされてあって、天のみ使いがマリアたちに告げました。

 

「恐れることはない。…あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。…」

 

 恐れることはありません…、マグダラのマリアにとっては初めての体験ですから、腰を抜かすほど驚いたことでしょう。けれどもマリアさまは、お言葉通りこの身になりますようにと、そのようなお方ですから、恐れながらも大いに喜び、マグダラのマリアの手を引いて、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行きました。

 

すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われた…

 

 この新しい朝に、イエスさまが私たちの行く手に立たれて「おはよう」と声をかけてくださるのです。「おはよう」と、主の方から先に声をかけてくださる。おはよう、原文ではχαιρετεといいます。普通に挨拶の言葉ですけれども、「喜びなさい」という意味があります。同じこの言葉が、聖書の他の箇所でも使われてあります。 

 

 παντοτε χαιρετε いつも喜んでいなさい (Ⅰテサロニケ5:16)

 

 いま、私たちは教会で出会って、「おはようございます」と声を交わすことができないでいます。本当につらいことです。日曜日に朝が来て、身支度を整えて、教会へ向かう、そこでイエスさまと出会い、祈りを共に合わせる仲間と出会い、「おはようございます」とあいさつを交わす日常がどれだけ尊いものか。

 

「おはよう」と声をかけられた婦人たちは、主に近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏しました。教会で共に祈ることができない今だからこそ、いつものイースターより、マリア達が主の足に触れ、額ずいて礼拝する思いが、その喜びが、その気持ちの高まりが、身に迫って感じられます。

 

「恐れることはない。…」

 

 恐れることはない、マリア達は、繰り返しそう励まされます。「行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。」三度主を知らないとうらぎった弟子たちに向かって、甦りの主は、その全てをお赦しになられて、「わたしの兄弟たち」と親しみを込めて言われるのです。

 

「わたしの兄弟たち」、わたしたちは主によって新しい人とされた、主イエス・キリストの兄弟姉妹です。再びガリラヤ湖畔の、この愛する鎌ヶ谷教会で、ご一緒に礼拝をおささげする日を心待ちにしています。

 

 イースターの喜びがともにありますように、そして、皆さまの健康が守られますように、心よりお祈り申し上げます。

 


「まことの光」   ヨハネによる福音書1118節    2019・12・22

 

初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。

言、聖書は古典ギリシャ語で書かれましたが、原文ではロゴスと言います。

 

「初めに言(ロゴス)があった。言は神と共にあった。言は神であった。」この美しい聖書のみ言葉は、「ロゴスの賛歌」とも言われます。聴く者の心に、無限の広がりを思い起こさせる力があります。それ故に、何か説明や講釈じみたことをしますと、何か味気なく感じられてしまう。声に出して、朗読する、それが最もふさわしい聖句であるように思います。

 

 同時に、このヨハネ福音書の冒頭ほど、これまで多くの註解がなされ、論じられ、様々な翻訳がなされた聖書の箇所はありません。ロゴスという意味がほかにない特別な言葉であるがゆえに、どのようにロゴスを訳したらよいのか、翻訳家たちの頭を悩ませてきた語句でもあります。  

 

今日、お読みした聖書も、「言」と、普通の言の葉とは書かずに、「言」一文字で言葉と読ませてあります。決して、言の葉ではない、枝の先にある一つの葉ではなく、ロゴスは、その幹であり根であり、遠くからも、近くからも見通すことのできない、奥行きがあるのです。

 

 現存する最古の日本語訳聖書は、北ドイツ出身のギュツラフが翻訳したヨハネ福音書とヨハネの手紙です。今から180年ほど前に、マカオにいたギュツラフのもとに、漂流して助けられた3人の日本人が預けられ、彼らの協力を受けて日本語に翻訳された聖書です。ヨハネ福音書のこの冒頭はこう訳されました。

 

始まりに賢い者ござる。この賢い者極楽共にござる。この賢い者は極楽。始まりにこの賢い者極楽共にござる。人はことごとくみな造る。一つも仕事は造らぬ、人は造らぬならば。人の中に命ある、この命は人間の光。この光は暗さに輝く。ただしは世界の暗い人間は勘弁しらなんだ。

 

 ロゴスは、「カシコイモノ」と訳されました。賢い人です。ロゴスには人格があった。思いを巡らし、喜び、悲しみ、痛み、讃える。良いものと、悪いものを区別し、自らの意志で判断し、行う人格がある。その者は、その人は、カシコイモノでありました。始まりに 賢い者 ござる、この賢い者 極楽共にござる。神は、極楽と言い換えられました。極楽、極楽、そのような平安にあるのが、神、極楽であると。万物は言によって成った。人はことごとく みな造る。ロゴスはカシコイモノでありあますから、その人は、そのお方は、ことごとくすべての万物をお造りになられた。カシコイモノは極楽。すべて造られたものは、極楽へとつながる、良いものでありました。この人のなかに、カシコイモノの中に命があるのです。生命の息吹があります。この命は、わたしたち、造られた人間の光です。極楽から離れて、暗さのなかでさまよう、私たち人間を照らすまことの光であります。ただしは、けれども、世界の暗い人間は、カンベンシラナンダ。この光はまぶしすぎる、勘弁してくれと、光から目を背けているというのです。

 

 カンベンシラナンダ。そのような思いにある私たちに、にもかかわらず、命のひかりを照らして下さる。それが、主のご降誕を記念する礼拝、クリスマスの恵みであります。

 

 神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。このヨハネとは、ヨハネによる福音書のヨハネとは別の人物です。バプテスマのヨハネのヨハネです。ヨハネは光を証しするために、この方がまことの光です、世に来て全ての人を照らすと、言い表すために来ました。この光とか、カシコイモノとか言われるお方が誰なのか。17節になって、はじめてそのお方がイエス・キリストであることが示されます。ヨハネは、イエス・キリストこそがまことの光ですと、恵みと真理とで満ち溢れたお方ですと証しするのです。なぜ証しをしなければならなかったのかと言いますと、「世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。」からです。 

 

 これまでずっと待ち望んでいた救い主、まことの光が、イエス・キリストであられることを、多くのユダヤの人たちは受け入れませんでした。だから、ヨハネは遣わされました。「悔い改めなさい、主の日は近づいた。わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである」と荒野でさけんだのです。

 

しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。

 

 しかし、主イエス・キリストを受け入れた人、カンベンシラナンダ、と言い放つ暗い人間ではなくて、光の方へ、その名を信じる人々には神の子となる資格をお与えになりました。そして、神によって新たに生まれる。神の子となる、つまり、光の子となるのです。

 

「万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。」のですから、私たちはもともとみな光の子であるはずです。だれもが、心の奥深くに、極楽を感じ、カシコイモノの存在を感じ取っているのではないでしょうか。

 

 ここで、ひとつ考えてみたいことは、主の聖名を信じる者だけが、光の子になるのか、信じると言い表さない人は、暗さの中にただあるのでしょうか。カシコイモノはそんな人を分け隔てするようなお方ではないはずです。すべての人を照らすまことの光です。カシコイモノは極楽に私たちを招くために、この恵みと真理とに心を開きなさいと、その神の愛に応えて歩みなさいと、私たちを導いてくださっているのだと思います。クリスマスのこの時に、私たちが思い巡らさなければならないことは、このまことの光がこの世に現れてくださったといことです。

 

言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。

 

 肉と言うのは、肉体のこと、つまり人間の姿のことです。まことの光が、肉体となって、人間となられてこの世に来られたということです。このことを受肉といいます。カシコイモノが、まことの光が、私たちと全く変わらない、泣きもするし、笑いもする、お腹もすくし、のども渇く、そのような人となられた。わたしたちの間に宿られた。救い主、イエス・キリストのご降誕です。

 


「開かれた祈りの家」   マルコによる福音書1115-19節    2019・11・10

 

敵をも愛しなさい、右のほほを打たれたなら左のほほをも向けなさい、上着をとる者には下着をも差し出しなさいと、そのような教えを説かれたイエスさまが、唯一と言っていいと思いますが、お怒りになられて、荒々しく振舞う様子が今日お読みした福音書に記されてあります。

 

イエスさまとお弟子さんたちがエルサレムの神殿の境内に入ったときのことでした。外国からも大勢の巡礼者が訪れ、そこで両替をして神殿に税金を納めます。そのとき両替人は手数料を多く取るわけです。また焼きつくすささげものとして鳩や羊らを境内で売っているのですが、それは町の相場の数倍の高値で売っていたようです。そのような神殿の境内で、イエスさまは、売り買いしていた人たちを追い出し始めて、両替人や鳩を売る人たちの腰かけていたイスやらを、ひっくり返すのでした。荒々しい、その息遣いも聞こえてきそうなイエスさまのお姿です。そばにいたお弟子さん達にとっても、衝撃的な出来事だったのではないでしょうか。あの、優しいイエスさまが、昭和のお父さんのように、ちゃぶ台をひっくり返すようにして怒りをあらわにしている。境内で物を運ぶこともとがめられて、こうお教えになられたのです。

 

「こう書いてあるではないか。『わたしの家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである。』」

 

 こう書いてあるとは、今わたしたちが旧約聖書と呼んでいる聖書に書いてあるということです。

 

「わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。」イザヤ書56:7

 

この個所です。ところが、あなたたちはその祈りの家である神殿で、法外な値段で取引をして、強盗の巣にしてしまった。すべての民の祈りの家ではないのか、どうして、外国からの巡礼者からだまし取るようなことをするのか、と。 

 

 群衆は心打たれて、イエスさまの訴えに耳を傾けていましたが、「祭司長たちや律法学者たちはこれを聞いて、イエスをどのようにして殺そうかと謀った。」とあります。神殿での商売を邪魔されては困ると思ったのでしょう。また、大勢の人がイエスさまの教えに感動している様子を見て、暴動やら何やらが起こっては危険だと恐れたのです。この出来事はイエスさまが十字架へと歩まれる、その直接的なきっかけとなる、大きな出来事でありました。いわば、主イエスは命をおかけになられて、宮清めをなさったのです。

 

 イエスさまの怒りは、その荒々しい行動は、どうしても教え正さなければならないことがあった、それだから厳しさをあらわになされたのでした。それは神の宮である神殿が、すべての人の開かれた祈りの家であるということを、お示しになるためでした。それだけではありません、この時に、イエスさまはすでに十字架への道行を覚悟なされていましたし、やがては、この神殿もローマ軍によって焼き払われることも見通されていました。 

 

 当時のユダヤの人たちにとって、エルサレムの神殿というのは、私たちには想像ができないぐらいに大きな存在でした。目に見える神殿はやがてなくなってしまうけれども、イエスさまは自らの命をおささげすることによって、神の国を、朽ちることのない神殿を示そうとなさったのです。それは永遠の命を明らかにすることでありました。

 

 そのような思いで、神殿の境内に入られたイエスさまでしたから、お金儲けのことばかり考えている両替人や鳩を売る人たちを見て、憤られ、怒りをもって叱られたのです。

 

「わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。」

 

 わたしの家とは、主なる神の家、神殿であり、この教会であり、わたしたち一人ひとりの体でもあります。 

 

 神の家である教会が、すべての人の祈りの家と呼ばれると、聖書に記されています。開かれた祈りの家であると、扉を閉じているのではなく、すべての人に開かれて、オープンでなければならないと。

 

 風のない晴れた穏やかな日には、できるだけ教会の扉を開いておくように心がけています。前を通り過ぎる人は、教会の中を覗き込むようにしてゆきます。たまにですが、礼拝堂に入られて、心静かに祈られる方もいらっしゃいます。初めて礼拝堂の中に足を踏み入れるのはとても勇気がいります。音楽礼拝をまもったり、教会フェスティバルなどの催しをしたりして、少しでも教会の敷居を低くと工夫をしていますが、大切なことは、教会が祈りの家であるということです。

 

  永眠者記念礼拝をまもり、私たちが第一に祈らなければならないことは、何でしょうか。教会では地上での生涯を終えることを、召天する、天に召されるといいます。天に帰る、帰天という表現もあります。永眠と言う表現も、それは終わりではなく、主のよみがえりの命のなかで、起き上がるという信仰の意味が込められてあります。ここに、私たちの祈りがあります。神の御国で、愛する故人のお一人おひとりが、主の命の中で共にいかされてあるという感謝の祈りであります。命の光の中で、いまも輝き続けてあると信じて、祈ることです。

 

 死が終わりではないと言うことを、私たちはどうしたら信じることができるでしょうか。死の闇と恐れと不安が、どうすれば、光と希望と平安とで満たされたものとなるのでしょうか。

 

  私たちがたよるのは、聖書のみ言葉です。

 

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」ヨハネ福音書3:16

 

 天にいます父なる神さまは、その独り子であるイエスさまをお遣わしになられ、私たちが神さまなど知らないと、神殿の境内で商売をするような、そのような心持で生きている、その罪を贖ってくださいました。それほどに世を愛された。独り子を信じる者が、主イエスの十字架の贖いと、よみがえりの命を信じる者が一人も滅びないで、御国へと招かれ、永遠の命をえるためにです。

 

「わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。」

 

 すべての人の祈りの家とは、独りも滅びないで永遠の命をえる、そのための祈りの家です。イエスさまはこの永遠の命について、私たちを教え導くために宮清めをなされ、そして、十字架への道行を歩まれたのです。

 

「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。」一コリント 3:16

 

 私自身が神の神殿であり、開かれた祈りの家でもあります。永遠の命を覚えながら、日々の生活を歩むということは、心が閉ざされることなく、開かれた心で、毎日を恵みの内に生かされることです。わたしが、開かれた祈りの家であると呼ばれる。そのように心から願います。イエスさまはいつでも、あなたの扉を開きなさいと、心を高く天に向けなさいと、となり人を自分のように愛しなさいと、そのために、開かれた祈りの家となりなさいと、時に厳しく、そして私たちの背負うべき十字架をも担って下さり、励まして下さいます。

 

 開いた心を求めて、祈りの内に歩んで参りたいと切に願います。