㟁下健一

きししたけんいち

これまで長いこと小学校の教師をしておりました。

教会の静かな平日にも随分と慣れてきました。

「子どものように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」と、イエスさまは仰います。

教会は大人をも、もう一度神さまの子どもとして受け入れてくれる場所です。

天のお父さまと呼んで、神に祈ることができる場所です。

教会の扉が開いていましたら、どうぞ礼拝堂の中でご自由にお祈りください。



牧師室の窓


2019.7

 

木曽で作られたさわら材のおひつが、教会の昭和の台所に良く映えます。前から、丹念に職人が手掛けたおひつに興味がありましたが、なにしろ高価な品なので、あきらめていたところ、先日に自称ミニバザーで、格安で手に入れたものです。我が家では、亀印の文化鍋でごはんを炊くことにこだわっています。あと、おひつがあれば完璧でしたが、やっと夢がかないました。

 

 私のもう一つの夢は、教会でおにぎりを皆で食べることです。それは、いまでもスーパーなどで買ってきて食することはありますが、そうではなくて、できたら鍋で炊いて、おひつで保ち、握りたてのおにぎりを提供したいのです。塩むすびで、お米ほんらいのおいしさを味わう。五千人の給食よろしく、「同じ釜の飯を食べた仲」として、おにぎりを一緒にほおばりたいと思っています。あと、ぬか漬けでもあれば最高です。子どもの頃は、母が毎日ぬか床をかき混ぜていたけれど、いまはやりません。その気になれば、教会にはぬか漬けのやり方を教えてくれる人は大勢いそうです。

 

 「おひつは使う前にさっと水で濡らして、それから布巾を蓋の間に挟んで蓋に水滴がつかないように。」

 

 昔はどこの家にもあったおひつが、今では定価〇万円を超えるとは、目を丸くしながらも使い方を教えてくださいました。

 

日本の食文化の継承と、信仰の継承と、はたしてどちらの方がたやすいか。生きて働く祈りの家があるということは、今では、それはそれは貴重な空間なのです。


2019.3

 

 水栽培のヒアシンスに花が咲きました。牧師室いっぱいに良い香りがします。春がそこまで来て、嬉しさで…と言いたいところですが、いまは受難節。両手を挙げて喜びを表現すにはまだ早いのです。受難節は英語でレントといいます。レントとは「日がだんだん長くなる」という意味。千葉の春は早いので、レントのときに春の到来を喜びきれないのがなによりもの受難です。レントの過ごし方を少し調べますと、「断食」という言葉があります。肉や卵、乳製品や油などを断つ習慣がありました。洋食を取らなければよいのか、と言えばそれまでですが、いまの日本の食生活では、伝統的なレントを守ることは至難の業でしょう。

 

 今日のお昼は何にしようか、と考えるときに全くレントを無視するわけにもいきません。昼抜きも思わないことでもないのですが、健康を損ねては、と言い訳をして教会のお勝手口に鍵をかけて外へ向かいます。スーパーのマルエツの向かいにインド料理屋さん(働いている人はネパールの人)があるのですが、そうだ、今日のお昼は野菜カレーにしようと、お肉を断つ決心をします。焼きたてのナンのおいしいこと。「ナンのおかわりは?」と勧められて、誘惑に負けてしまいます。

 

 「いつも喜んでいなさい、絶えず祈りなさい、どんなことにも感謝しなさい。」

 

 このみことばに支えられて、一年の歩みが守られました。キリストの香りで満たされた毎日です。

 


2018.12

 

牧師室に差し込む日の光が随分と変わってきました。冬の低い角度の日差しが眩しくて、日時計のように時刻とともに、牧師室内をうろうろとしています。

 

 教会歴に従って、聖日の礼拝の準備を整えますが、講解説教とちがって聖書箇所が様々にしめされ、そのつど浅学な私は諸書全体について学ばなければならず四苦八苦しています。辞典や参考図書などを開き散らし、西日に格闘しながらふと池に目をやると、カルガモがじっと日にあたっています。

 

「空を飛ぶ鳥を見なさい。」

 

 ふと、主の言葉が聞こえてきます。水辺に浮かんでいる鳥ではありますが、ひだまりに集まるカモを眺めて、しばし手を休めました。哲学者ディオゲネスがアレクサンドロス大王に何か望むことはないかと問われ、日陰になるからそこをどいてください、と申し出た話。いかに、光以外の諸事情にまどわされているか、深く反省をいたします。

 

 湖面の反射が眩しさを増します。パソコンの画面を見ているより、こちらの方がずっと美しい。クリスマスに、漆黒の闇に輝く主の光を待ち望みながら、光あれとみ言葉にきく生活に感謝いたします。